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・メディアクエリで758px以下になると画像のように段組み表示になります。サンプルはiPhone12 pro/Safariのサンプル。

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「あたいね、ときどきね、死んだら、も一度化けてもいいからお逢いしたいわ、どんなお顔をしていらっしゃるか見たいんですもの。あたい達の命ってみじかいでしょう、だから化けられたら、何時か化けて出てみたいと思うわよ。」
「まだまだ死なないよ。夏は永いし秋もゆっくりだもの、冬は怖いけれど。」
「冬は怖いわね、からだの色がうすくなっちまうし、おじさまはお庭に出なくなるし、ねえ、冬んなったらお部屋にいれてね。」
「入れて大事にしてやるよ、暖かい日向にね。そしてわかさぎの乾干をやるよ。」
「鏡のついた箱入の餌もね、こまかく叮嚀にかなづちで砕いて、」
「溝川のみじんこ・みみずもさがして歩くよ、きみはあれが好きだから。」
「あ、嬉しい。おじさまは、何時も、しんせつだから好きだわ、弱っちゃった、また好きになっちゃった、あたいって誰でもすぐ好きになるんだもん、好きにならないように気をつけていながら、ほんのちょっとの間に好きになるんだもの。此間ね、あたいのお友達が男の人に、一日じゅうお手紙を書いていたわ、人が好きになるということは愉しいことのなかでも、一等愉しいことでございます。人が人を好きになることほど、うれしいという言葉が突きとめられることがございません、好きという扉を何枚ひらいて行っても、それは好きでつくり上げられている、お家のようなものなんです、と、そのかたの文章がうまくて、後のほうでしめくくりをこんなふうにつけてありました。わたくし旅行先でお菓子を沢山買って、それを旅館に持ってかえって眺めていると、誰が最初にお菓子を作ることを考えたのでしょうと、そんな莫迦ばかみたいなことも書いてございました。」
「きみはいくつになる。」
「あたい、生れて三年経っているの、だから、こんなにからだが大きいの。」
「人間でいうと二十歳くらいかな、頭なぞがっちりしているね。」
「ええ。でも、おじさま、人を好くということは愉しいことでございますという言葉は、とても派手だけれど、本物の美しさでうざうざしているわね。」
「それ以上の言葉は先ず見つからないね、女の人の言葉としては正直すぎているくらいで、誰でもそうは書けないものがあるね、大胆な表現でしかも極めて普通なところがいいね、どんな人なの。」
「逢ってみたいの。」
「きれいな人かどうか、それが気がかりなのさ。」
「それはそれはきれいな人よ。せいは低いけど。」
「何をしている人なんだ。」
「或る雑誌の編集をしている方、海棠夫人という名前がついている方なの。」
「その手紙を貰った相手は誰。」
「歌舞伎俳優だったのだけれど、いまは、たまにしか出ない名のある俳優なのね、おじさまはきっと名前をいえばお判りでしょうけど、あたい、お友達から口どめされているから、言えないわ。けどね、人を好くということは愉しいことでございますというのは、とても、たまらないよい言葉ね、人を好くということは、おじさま、言ってごらん遊ばせ。」
「いやだよ、いい年をしてさ。」
「ね、一ぺんこっきりでいいから言って見て頂戴、男の人の口からそれを聞いてみたいんだもの、人を好くということは愉しいことでございます、……」
「人を好くということは、……」
「愉しいことでございます、と、息をいれずにひと息に仰有るのよ、おじさまったら、歯がゆくてじれったいわよ、人を好くということは愉しいことでございますと言うのよ。」
「人を好くということは、……」
「また吃どもったわね、ずっと一気につづけるんだと言っているじゃないの。」
「人を好くということは、……」
「すぐ、あとを言いつづけるのよ。判らない方ね。」
「僕にはとてもいえない、かんにんしてくれ。」
「何て年よりのくせにはにかみやだろう、もう言わなくてもいいわよ。」
「慍おこったね、じゃ言うよ、人を好くということは人間の持つ一等すぐれた感情でございます。」
「ちがうわね、勝手に言葉を作ってはだめじゃないの、人を好くということは、ほら、早くさ。」
「人を好くということは、……」
「何てじれったいおじさまでしょう、それで小説家だの何のって可笑おかしいわよ、あたいの言葉の終らない前に続けるのよ、人を好くということは、なのよ、あら、黙っちゃった。」
「…………」
「言わないの、早くさ。」
「僕はだめだ、きみひとりで其処で何度でも言ってくれ、僕はばかばかしくなるばかりだ。」
「わかさがないのね。」
「何もないよ、すっからかんだよ、好きでも口にはいえない言葉というものがあるもんだ。」
「あたいね、おじさまみたいなお年よりきらいになっちゃった、幾らいってもテンポが鈍のろくて、じれじれして噛みつきたいくらいだわ。」
「金魚に噛みつかれたって痛かないよ、いくらでも噛みつくがいいよ。」
「あんなことを言っている、あたいだって一生懸命に噛みついたら、おじさまの痩せた頬のにくなんか、咬かみとるわよ。」
「怖いね、大きな眼をして。」
「おじさまと遊んでやらなかったら困るでしょう。呼んだって返事しないからね。」
「慍るな、あやまる、きみが遊んでくれなかったら、誰と遊んだらいいんだ。」
「じゃ、先刻のことをもう一遍くり返していうのよ、ね、いいこと、人を好くということは、……」
「人を好くということは愉しいものです。」
蜜のあはれ/室生彗星 青空文庫より引用